奈良県の歴史

奈良県の歴史

古墳時代から奈良時代まで
紀元3世紀から4世紀頃に、この地方の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれる。

ヤマト王権は、現在の天皇家の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。また、邪馬台国と同一視する説、北九州にあった邪馬台国の子孫が移住して新たに建国した国であるという説、神武天皇の東遷説などがある。

以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があった首都地域であり、都城としては藤原京や平城京が建設された。

古代からの神道信仰の伝統、及び6世紀の仏教伝来以来の国策により、この地域には神社仏閣が多数存在する。

遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。

平安時代から室町時代まで
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となる。
中近世の大きな歴史的事件には登場しない。
ただし温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。
一方で南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、及び幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けたが北朝に降った。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。
奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。

戦国時代から江戸時代まで
戦国時代には筒井・古市・越智などが北大和地域に割拠し争ったが強力な政権となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に筒井党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。続く豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山(現在の大和郡山市)の城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
江戸時代は奈良(奈良奉行)と五條(五條代官)を幕府が直轄支配し、郡山・高取などの中小藩が成立した。
このうち大和南部の広大な山域は五條代官所管轄の天領(幕府直轄地)となった。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。また、あまり知られていないことであるが、五條代官の支配地・管轄はかなり広域で現在の和歌山県の一部も含んでいた。

明治維新以後
明治初期には、一度奈良府が設置されるも、版籍奉還や廃藩置県・府県統合により、堺県に合併されたり、堺県を含む大阪府に合併されて「大阪府の大和地域」にされるなどした。しかし、1887年には大阪府より分割され、奈良県が再設置された。かつて首都の置かれた地域は「県」ではなく「府」とされたため、奈良県でも、京都府、大阪府、東京府と並ぶ「奈良府」への改称運動が起こったが実現せず、奈良県の存在感は薄かったが、今日では、古都と言えば京都と奈良と言われる程知名度が高く、日本の観光都市として栄えている。